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第9章 エピメニデスのパラドックスの真の解法

第1節
うそつきのパラドックスとは何か
エピメニデスのパラドックスとはいっぱんにうそつきのパラドックスと呼ばれているものです。
第2節
エピメニデスのパラドックスについて
エピメニデスのパラドックスは否定ではなく、反対においてパラドックスになります。
第3節
うそつきのパラドックスの歴史
うそつきのパラドックスはエピメニデスのパラドックスから始まります。そして、これが現代論理学の危機を生んでいるのです。
第4節
うそつきパラドックスの自己言及性
うそつきパラドックスの一つの特徴としては自己言及性があげられます。
第5節
うそつきパラドックスにおいての階層区分の試み
うそつきのパラドックスを階層区分しようとしても、それができないからこそパラドックスでありえるのです。
第6節
集合論における自己言及禁止のありかた
集合論においては、階層区分の考え方は見事にうまくいきました。それが正規性の公理というものです。
第7節
うそつきパラドックスの階層区分の欠陥
どんなに階層区分してパラドックスを回避しようとしても、階層区分にうまくのらない文はパラドックスを解消できいのです。
第8節
自己言及文における主語の存在性
自己言及文には一般的な文においての主語や述語がないのです。自己言及文はそもそも文ではないのです。
第9節
コイレの解決に対する反証
コイレの解決は一見、素朴な感じにもっとも即しているので、完璧に思えます。しかし、これでは間違いなのです。
第10節
自己言及性の意味内容について
真偽を決定する文は、文の意味する内容が明確でなくてはいけません。それが自己言及文では不明確なままなのです。
第11節
意味内容における真偽決定
意味内容が不明確だからといって真偽が決定できないということではありません。そのようにしてしまうのは解決のやりすぎと言われます。
第12節
うそつきのパラドックスは何が解決されなくてはならないか
うそつきのパラドックスは正しい推論をしているのに、矛盾を導いてしまうということが問題なのです。これは論理学の危機です。
第13節
論理における強制力
論理は私一般においてありえます。この私にはなりたって、あの人には成り立たないということができないのです。
第14節
論理において抜け落ちてしまう他者性
私たちは哲学において、「この私」と「あの人」の思いを大事にしてくれる哲学を望んでいるのです。
第15節
エピメニデスのパラドックスのありかた
エピメニデスのパラドックスとはどのようなものだったでしょうか。おさらいをしてみましょう。
第16節
パラドックス解決の方向性
エピメニデスのパラドックスは真であると同時に偽であることによってパラドックスになったのでした。そこで、「この私」に真を、「あの人」に偽を振り分けてやれれば問題は解決されるはずです。
第17節
論理学における真と偽
論理学において、自己言及文といえども必ずパラドックスになるわけではありません。真と仮定して真を導くことができる文もあるのです。
第18節
話す者と聞く者の存在
エピメニデスはなぜ発言したのでしょうか。それは、聞く人がいたからなのです。こんな簡単なことが論理学では導けないのです。
第19節
うそつきのパラドックスにおいての対角線論法在
ついにエピメニデスのパラドックスに対角線論法を適用するときがきました。これからものすごいことがおこります。
第20節
対角線論法においての読み替え
「すべてのクレタ人はうそつきである」を「すべてのクレタ人は正直である」と読み替えるとパラドックスが解消されるのです。
第21節
対角線論法における他者性の出現
読替ではなく、じつは対角線論法によって、いわば超日本語が創出されたのです。
第22節
「あの人」の他者性
うそつきのパラドックスを解決するには、体系的物量戦で体当たりしていくしかないのです。
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