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第10章 「この私」と「あの人」における「私たち」の形成

第1節
他者を意識するとき
他者を意識するときはどのようなときでしょうか。企業においては、流れ作業から、一人での作成に変わって、他者の意味が変化してきています。
第2節
「私たち」という言葉の使用
ある人々があつまっていて、最初に私たちと誰かがいったとき、その私たちという言葉に含まれた人々は、そのことばをどのように聞くのでしょうか。
第3節
「私たち」における共通理解の必要性
私たちということばが問題なく使われるためには、どうしてもある共通理解が必要になるのです。
第4節
「この私」と「あの人」の場所性の違い
パースペクティブにおいて現象する「この私」と「あの人」の本質的な違いは場所性です。
第5節
場所的言語のありかた
場所を表す言葉はたくさんあります。そして、それは、「あの人」にとっても同様です。ただ「この私」にとってのここは、「あの人」にとってのあそこなのです。
第6節
「あの人」においての場所的言語の他者性
場所的言語は、「この私」と「あの人」では、同じ意味に取ったとしても、同じものを指示できるとはかぎりません。
第7節
この私」と「あの人」における場所的言葉の意味
場所的な言語は、お互いの場所性が違う限り、お互い、言葉の意味を知らないと思えてしまうのです。
第8節
「この私」と「あの人」における場所の転回
「この私」と「あの人」が理解しあうためには、「この私」の場所に「あの人」がくればいいのです。これが場所の転回です。
第9節
「私たち」の理解の相対性
「この私」と「あの人」における「私たち」の形成は決して固定化されたものではありません。パースペクティブにおいて現象するその都度の場所性において結果的に見いだされるだけなのです。
第10節
「私たち」の形成における対角線論法
「この私」からみて「あの人」がどのような意味付与を行っているかはわかそらないということを対角線論法によって見いだすことができるのです。
第11節
「私たち」の形成における不確実性
「この私」と「あの人」が同じように考えているということはどのようなことなのでしょうか。
第12節
柄谷行人の教える−学ぶ関係
柄谷行人はたいへん刺激的です。その柄谷行人が他者を見いだすほうほうとして教える−学ぶ関係というのがあります。
第13節
前提として捉えてはならない教える−学ぶ関係
教える−学ぶ関係は決して前提として考えてはいけません。柄谷もいうように、それは闇の中の跳躍として、いわば結果的に現れるものなのです。
第14節
道徳を数学化するとはどういうこと
道徳を数学化することによっって、体系的に考えることができるのではないでしょうか
第15節
人間行為における倫理としての推論規則
行為体系における推論規則こそ、倫理なのです。
第16節
話してみて理解が深まる「私たち」の形成
人間は行為するだけでは本当に「あの人」と「私たち」が形成されているのか決定できません。話してみることも必要なのです。行為だけでは真の「私たち」は形成されません。話してみることも必要です。
第17節
「私たち」の形成のまとめ
この章で「この私」と「あの人」が「私たち」を形成することができました。しかしそれは絶対確固としたものではなく、いわば見かけのものなのです。しかし、それ以上のものは決してもとめられません。
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