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第8章 他者の論理学 | ||
第1節 人と分かり合いたいという気持ち |
私はずっと人と分かり合いたいと思ってきました。でも人と分かり合うのは本当に難しいことでした。 | |
第2節 「あの人」という他者の現れ |
「この私」と「あの人」はどうして他者なのでしょうか。それはパースペクティブにおいて現象してくる場所性が違うからです。 | |
第3節 論理学においての文と接続詞 |
論理学は文と接続詞によって構成されます。単語だけでは真か偽かきめられないからです。その文を接続詞によって、複数の文についても真か偽を決定できるようになります。 | |
第4節 論理学とさまざまな接続詞 |
一般の言語には、”しかし”という接続詞があります。なぜ論理学では、”しかし”という接続詞がないのでしょうか。 | |
第5節 文と接続詞の真偽関係 |
文と接続詞の真偽の関係はどのようになっているのでしょうか。ここでは、各接続詞についての真偽について考えてみましょう。 | |
第6節 ブール代数における命題計算 |
文と接続詞の真偽をいちいち考えるのはたいへんです。そこで、真偽を簡単な計算で分かる方法を考えてみましょう。 | |
第7節 述語論理学における主語と述語 |
述語論理学では、文を最低限、主語と述語にわけて、それを命題関数という記号で表現します。 | |
第8節 量化された命題関数 |
ある文は、すべてとか、ある〜というように表現されます。たとえばすべての人間は男であるというようにです。しかし、一般には、ある人間は男であるというべきでしょう。これを記号で表現してみましょう。 | |
第9節 量化された命題文における一部否定 |
量化された命題文を否定するとどうなるでしょうか。実は、論理学では否定には二種類あるのです。今回は一部否定について考えます。 | |
第10節 量化された命題文における全部否定 |
全部否定はその名のとおり、すべてを否定することです。この否定は存在文においてはどのように展開されるでしょうか。 | |
第11節 根底から考えるということの恐ろしさ |
根底から考えようとすると、今まで自分自身が認めていたすべてを失ってしまいます。それは自分自身の崩壊です。しかし、そこをつうじてしか哲学は理論化できないのです。あなたを哲学の中で見いだすことができないのです。 | |
第12節 他者を見いだし得ないひとくくりの命題関数 |
他者は私が知り得ない部分をもつ者です。それは「この私」と「あの人」をひとくくりにした命題関数のようにひとつの述語では表現できないのです。 | |
第13節 他者を見いだすための全部否定 |
他者は全部否定として「この私」とは違う者として現象してきます。しかし、全部否定としてしまうと、隣の身近な人と、見知らぬ国の外国人との区別がつかなくなってしまいます。 | |
第14節 場所性の違いとしての他者 |
「あの人」が「この私」にとって他者なのは、パースペクティブにおいて現象してくる場所性が違うからです。ただ他人というだけでは、他者の本質的な他者性を見いだせないのです。 | |
第15節 対角線論法の基本 |
対角線論法の基本は自然数より実数のほうが濃度が大きいということを証明することです。これこそが他者を見いだす論法にになるのです。 | |
第16節 対角線論法と全部否定の否定性の本質的差異 |
対角線論法における否定と論理学の否定は根本的に違います。論理学では、3の否定はバナナでもよくなってしまうのです。 | |
第17節 可能無限としての対角線論法 |
数学において対角線論法は実無限において行われますが、他者の論理学においては可能無限によって行われます。 | |
第18節 他者性の確保としての対角線論法 |
対角線論法によって、他者の具体的な考えが分かるということではありません。他者の考えは分かるものではないのです。それでも他者を確保することにおいて意味があるのです。 | |
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