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第14章 意識のあり方

第1節
意識に関する疑問
意識とはなんでしょうか。意識について、いろいろな疑問がわいてきます。
第2節
意識の志向性
意識とは、つねに何物かについての志向的な意識です。この志向性があってこそ初めて意識なのです。
第3節
客観的なものとは何か
主観、客観とはなんでしょうか。客観は主観によってとらえられるのでしょうか。しかし、どうしても物自体が残されてしまうのです。
第4節
主観の列挙は客観に相当するか
客観を知りうるのは主観ですが、それでは、主観がすべてを知り尽くしたら、それは客観存在と同等になるのでしょうか。
第5節
決して主観に現れない客観存在
主観をどんなに列挙しても客観にはなりません。客観存在そのものが主観によっては絶対的に見いだされないからです。
第6節
主観、客観の成立起源
客観存在は決して認識することはできません。認識できないものを在るとするのは虚構ではないでしょうか。少なくとも虚構といって反論する事ができません。
第7節
パースペクティブにおける「この私」のあり方
パースペクティブにおいては、客観存在のように絶対的な保証がありません。したがって、本当にそのマウスの記述を行っているのか決定できないのです。
第8節
何を意識の発生とするか
意識はいつ発生したのでしょうか。これに答えるにはかなり難しい側面があります。
第9節
観察による意味づけの外部性
意識の発生について観察して見いだそうとしても、その観察それ自体においての意味づけによって、真の意識の発生を見いだすことができなくなってしまうのです。
第10節
意識における自覚の意味
そもそも意識とは何でしょうか。意識とは、まず環境へと志向する自覚というべきなのです。
第11節
意識発生場面への遡行
意識発生場面では、時間と空間は分かられることなくパースペクティブにおいてのみ見いだされるものなのです。
第12節
「この私」とは何か
パースペクティブにおいて、現象してくる「この私」とはそもそも何なのでしょうか。それはどのように現象してくるのでしょうか。
第13節
「この私」の意識における時空性
時間性はパースペクティブにおいて、あの運動している物を見いだす「この私」が現象するかぎりにおいて見いだされるのです。
第14節
聴覚における意識のありかた
今までは、パースペクティブというと視覚だけに限られてしまうようなイメージがありますが、そうではありません。五感すべてにおいて「この私」が現象してくるのです。
第15節
パースペクティブと対角線論法の対等性
私の哲学はパースペクティブと対角線論法が対等に作動することによってのみ成立します。決してパースペクティブのみで成り立つのではありません。
第16節
結果から見られた原因特定の恣意性
原因から結果が見いだされるのではありません。原因は、常に名指された結果を説明するかぎりにおいて原因として措定されるのです。
第17節
触覚における意識のあり方
触覚についても他者性が現象してきてしまうのです。
第18節
群集心理とは何か
人間の意識はどこまでも個人のものなのでしょうか。人間は社会の中で生きているのですから、群衆における心理というものもあり得るのではないでしょうか。
第19節
群集行動を引き起こす要因
群衆行動を引き起こす動因には、大きく分けて、感染説、合流説、規範説、暗示説があります。
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