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第12章 私一般とは何か | ||
第1節 社会は誰によって成るか |
社会は誰を主語にすることによって探求できるのでしょうか。それこそが私一般なのです。 | |
第2節 私一般と「この私」の関係 |
私一般は「この私」と独立にあるのではありません。「この私」と密接な関係にあるはずです。ではどのような関係にあるのでしょうか。 | |
第3節 「この私」からみた私一般 |
いったい個性とは何でしょうか、他の人が絶対にしない部分なのでしょうか。しかし、そのように考えると、その個性を誰も理解できなくなってしまいます。 | |
第4節 役割行為者としての人間 |
人間はよく個性と言いますが、社会の中ではほとんど役割を果たす者として行動しています。 | |
第5節 社会学における観察の問題 |
社会学は社会を観察することによって得られるデータをもとに考えるということもする学問です。では、その観察は十全にできるのでしょうか。。 | |
第6節 本当の私は、どこにあるのか |
本当の自分とは何でしょうか。たとえば芸術活動などのような自分がもっとも大事だと思っている自己の活動部分をいうのでしょうか。 | |
第7節 芸術における演技性 |
芸術に無心に打ち込むとしても、それは結局、演技でしかないということになってしまうのです。 | |
第8節 本当の私を議論において見いだせない真の理由 |
本当の私を見いだそうとして、一般的な議論をしてもみいだせません。もしそれで見いだせたのなら、それは個性ではなく、私一般になってしまうでしょう。 | |
第9節 私一般はどこにおいて意味し得るか |
私一般はどこにおいて成立するのでしょうか。それこそが社会なのです。 | |
第10節 社会とは何か |
私一般が成立する社会においては、青空のような自然さえも社会化されます。 | |
第11節 社会という言葉の用法 |
私たちは社会ということばをどのように使っているでしょうか。それは個々の人間関係の総称として使っているのではないでしょうか。 | |
第12節 社会においての意味 |
私たちは、社会においてはじめて意味を見いだし得ます。これは何を意味しているのでしょうか。 | |
第13節 社会という名の意味とは何か |
社会においていっさいの意味が見いだされるとするなら、そもそもいっさいの意味が見いだされる社会とはどのような意味なのでしょうか。 | |
第14節 社会という名の無においての現象 |
いっさいの意味が見いだされる社会とは端的に無でしかあり得ません。その無においてこそ意味が現象してくるのです。 | |
第15節 意味のパースペクティブ性 |
無において意味が現象してくるのはパースペクティブのためなのです。 | |
第16節 身体機能として語り得ない視野 |
視野は身体機能として見いだされるものではありません。パースペクティブにおいて、「あそこ」という場所にあのものを見いだす「この私」が現象する限りにおいて、視野がありえるのです。 | |
第17節 私一般の成立条件 |
人間は死ぬものであるという言明は私一般においてなされます。この言明はどのようにして私一般の言明として成立するのでしょうか。 | |
第18節 私一般のあり方 |
私一般とは私一般という一般的定義があるわけではありません。パースペクティブにおいて「あの人」のあり方を私一般とみる「この私」が現象するかぎりにおいて私一般なのです。 | |
第19節 個性のあり方 |
個性とは個性という一般的定義があるわけではありません。パースペクティブにおいて「あの人」のあり方を個性とみる「この私」が現象するかぎりにおいて個性なのです。 | |
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