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第6章  この私と世界の相対性
第1節
パースペクティブにおいての遠近の本質
パースペクティブにおいての遠近の本質とはなんでしょうか。それこそが大小なのです。小さく見えるから遠くに見えるのです。遠くに見えるから小さく見えるのです。この大小と遠近にはどちらが先ということはありません。どちらもパースペクティブにおいて構造化として現象してくるのです。
第2節
「この私」の「この」とはどこか
「この私」の「この」は不動ではありません。「あそこ」があるからここがあるのです。「この私」も「あそこ」を見出すことによってはじめてこの私の「ここ」という場所を知ることができるのです。
第3節
そもそも相対的とはどういうことか
一般に相対的というと、あの鉛筆よりこの鉛筆のほうが長い、さらにこちらの鉛筆のほうがもっと長いということになります。しかし、「ここ」と「あそこ」の相対性はこういう相対性とは違います。
第4節
パースペクティブにおいての相対的とは何か
パースペクティブにおいての相対性は現象する場所性によって決定されます。違う大きさにみえても、それが場所性によって、同じ大きさに現象するのです。
第5節
自然数の相対性に場所性はないのか
自然数の相対性は、かならず3のほうが2よりも大きく、5の方が4よりも大きくなっています。こうした大きさが、パースペクティブにおいても確保されるのでしょうか。じつは、そうした較べられるすべてが「この私」と同時的、相対的に同じ位置に現象するかぎりにおいて自然数的な見方が確保されるのです。
第6節
相対性のもとになる本来のありかたはありえるか
さまざまに見出される図のあるひとつが客観的で、他は主観的だというのは間違いです。どれもパースペクティブにおいて「この私」と同時的に現象してくる図なのです。
第7節
ひとつのものがさまざまに現象するとはどのような事態か
ひとつの図がさまざまな仕方で見えるとはどういうことなのでしょうか。実は、そのひとつひとつの図とともに現象してくる「この私」が見る限りにおいて、どれもまったく別の図なのです。
第8節
同一性のあり方
ものの同一性とはどういうことなのでしょうか。それはあくまでパースペクティブにおいて現象してくるかぎりにおいて見出されるものなのです。
第9節
そこにペンがあるということの問題性
私はそこにペンがあるということがどういうことなのかを20年間考えつづけてきました。そして、ようやく決着がつけられるようになりました。
第10節
錯覚のあり方
錯覚ということばがあります。では、根本的に錯覚という事態はどのようなことをいうのでしょうか。
第11節
現象の相対性
私の哲学体系には基本的に錯覚という言葉はありません。錯覚といえども立派な現象です。ただ、ある現象を正しいと判断するかぎりにおいて錯覚だということなのです。
第12節
パースペクティブにおいての慣性運動の相対性
上りと下りの電車が動くということは、距離が離れていくことです。それは、パースペクティブにおいて、「間近」→、「あそこ」→「遠くのほう」へと移行していくのです。
第13節
パースペクティブにおいての慣性運動の相対性2
距離が離れていくのは、お互いの電車が反対方向に行くときだけではありません。同じ方向に走っても、速度が違えば、離れていきます。この電車とあの電車がお互いの状況から、どちらに走っているのか、どのように走っているのか客観的な状況などわからないのです。
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