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第4章 超越論的領野とは何か | ||
第1節 なぜ地が図において見出されるのか |
私たち常に意味に覆われているといえるでしょう。では、われわれをとりまく意味とは何なのでしょうか。意味あるものとして現象するために、どのような事態が起こっているのでしょうか。 | |
第2節 なぜ図が地において見出されるのか |
超越論的領野とは何でしょうか。この言葉は何を意味するのでしょうか。これを探求するために、超越論的領野と似たふるまいをする身近なもので考えてみましょう。その身近なものが鏡です。鏡のあり方を考えることこそ超越論着て領野をの意味を見出す手がかりとなる。のです。 | |
第3節 鏡が鏡自身を映すとはどういうことか |
鏡自身は普通には映すことができません。ですが、鏡の前に鏡を向かいあわせてやればその鏡j自身を映すことができます。しかし、そのようにやると、無限の鏡の像ができてしまいます。なぜそのようになってしまうのでしょうか。 | |
第4節 鏡の性質 |
鏡の性質とは、まず物を映すことです。しかし、これだけでは、それが映像の物なのか、実際のものなのかわかりません。そのものが鏡の映像であることを知るには、鏡の枠が知ることが必要なのです。 | |
第5節 鏡を見出す本質的ありかた |
私たちは鏡をどのように認識するのでしょうか。鏡の本質は自分自身を映さないということですが、しかし私たちはこのことによって鏡を知るわけではありません。鏡に映る像を通じて直接、鏡を知るのです。映る像の有から推理して無を見出し、それから鏡を知るということではないのです。 | |
第6節 フッサールの超越論的主観性のありかた |
フッサールはいっさいの現象を支える土台として超越論的主観性をみいだしました。しかし、こうしたいっさいの現象をささえる土台はそれ自体、しみとおなじように語の意味のない無でなくてはいけません。その無に対してどうして我という名を冠すことができるのでしょうか。 | |
第7節 超越論的領野においての構造性 |
超越論的領野はそれ自体では現象しえません。超越論的領野はあくまでそこにおいて現象するものがすべてなのです。しかし、その現象はでたらめに起こるわけではありません。現象は構造化されて現れるのです。 | |
第8節 超越論的領野としてのパースペクティブ |
今まで超越論的領野とは何かについてさまざまな手がかりを得てきました。そこからいえることはパースペクティブこそが超越論的領野ということなのです。 | |
第9節 超越論的領野の本源的基底性 |
超越論的主観性の一般的説明において言われるように、ここにいる私からパースペクティブが開けるということではありません。あくまでパースペクティブにおいてこそ私さえそこから見出されるのです。 | |
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