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第3章  真の第一原理を求めて
第1節
超越論的領野とは何か
超越論的領野においていっさいが現象します。現象しないものなどありえません。もし現象しないのなら、それはそもそもありえなかったものなのです。しかし、ありえなかったものと言ってしまうとそのようなものとして現象してきてしまいます。それほどに超越論的領野においてはいっさいが現象してくるのです。
第2節
存在とは現象において構成されるものである
存在より現象のほうがはるかに広い概念です。たとえば蜃気楼は存在するとはいえないでしょう。存在するとはいえないからこそ蜃気楼だからです。しかし幻も現象です。どんなものも現象します。存在は現象において構成されるものなのです。
第3節
哲学の体系化のありかた
いっさいの現象が超越論的領野において現れるというのは本当に第一原理なのでしょうか。このように明確なことばで述べられた言明が本当に第一原理として成立するのでしょうか。
第4節
同数とはどういうことか
同数であるとはどういうことなのでしょうjか。ある物の集まりと、他の物の集まりを比べる場合、もっとも簡単な方法はひとつずつペアにしていく方法です。これによってどれもペアがつくれれば同数ということなのです。
第5節
自然数と差が認められない場合
無限のものでも偶数、自然数、整数、有理数はすべて同じ無限の大きさになっています。それは規則正しく並べる方法論があるかどうかということにかかっています。
第6節
自然数より多い実数の集合
自然数と実数ではどちらが多くあるでしょうか。無限は無限なのだから差がないと思う方もいらっしゃるでしょう。ところがそうではないのです。対角線論法という手法を使うと、実数のほうが自然数より多くなってしまうのです。
第7節
カントールの実無限という考え方
実無限というのはいわば神様的な考え方です。たとえば実数全体、自然数全体という考え方です。対して可能無限というのは人間的な考え方です。自然数にしてもどんな数をもってきても必ずその上があるということです。ここでは自然数全体という考え方はありません。つねに具体的な自然数をもってきて、かならずそれよりも大きな数があるということです。
第8節
ペアノの公理とZFの公理の違い
無限の数に対する対角線論法はペアノの公理の中では成立しません。あくまツェルメロ・フレンケルの公理の中で初めて可能になるのです。
第9節
実数の大きさの誤りやすい証明法
実数の本質とは自然数よりも多いということ以上に実数は並べる規則を持たないということなのです。もし自然数と実数が同じならば、実数にも並べる規則がなくてはならないということになってしまうのです。ところが並べる規則がないために対角線論法が有効になってしまうのです。
第10節
対角線論法とは何か
すべての有限について成り立つならば、無限になっても同じようなことがなりたつのでしょうか。実はそうではないのです。
第11節
対角線論法の裸の姿
対角線論法はZF公理によって定理になっているのですが、このZF公理をはずしてしまうと、実は、実数は自然数より多いという結論ではなく、実数は並べられないという結論しか出てこないのです。
第12節
哲学においての数学の必要性
哲学の体系を築きあげようとするなら、真の論理によって築き上げていかなくてはいけません。そのためには、同じように厳密な論理によって探求されていく数学上の成果をも取り入れていく必要があるのです。
第13節
対角線論法においての外部
対角線論法は並べられているすべてを対角線論法によって変換してしまうことによって、その表にはないものを作りだします。それは、内部のいっさいをしらみつぶしにあたって、そこには決してない外部を見出すということなのです。
第14節
対角線論法においての外部とは何を意味するか
対角線論法において外部にでるということは、何によって言いえるのでしょうか。それは、前提として出されたすべてを否定することなのです。このすべての要素に対する否定こそが外部にでるということなのです。
第15節
超越論的領野においてのすべての範囲とはどこまでか
超越論的領野においてすべてが現象するというときの、すべての範囲とはどこまでなのでしょうか。第一原理はすこしでも前提が少ないほうがいいに決まっています。そこで、すべての範囲をコンパクトにしてみました。ですがコンパクトにするために、あありにも多くの前提を必要としていまうのです。
第16節
無限は無限にある
実数は自然数より大きいということをカントールは証明してしまったのですが、実は、カントールは実数よりも大きい無限が、かぎりなくあることを証明してしまったのです。
第17節
超越論的領野においてのすべての意味
このすべてという言明は、名指されるひとつひとつの要素の外部に位置するということなのです。そして、これこそがすべてという言明がなりたつための条件なのです。
第18節
カントールのパラドックス
すべての集合の集合というものが考えられます。カントールはこの一切の集合を含んだ最大最終の集合がなければならないと考えたのでした。
第19節
ラッセルのパラドックス
ラッセルのパラドックスとは「自分自身を含まない集合の集合は、自分自身を含むのだろうか」というものです。含むとしても、含まないとしても矛盾してしまうのです。
第20節
リシャールのパラドックス
ラッセルのパラドックスでは、外部にでたと思ったのに、内部にいてしまったというパラドックスですが、リシャールのパラドックスは、はじめから内部に矛盾を作ってしまいます。そもそもはじめから内部に矛盾があるために、対角線論法を行っても外部に出るべき部分を見出しえません。
第21節
意味についての意味とは何か
第一原理は第一原理であるという前提さえも削らなくてはいけないのです。第一原理を求めたとしても、その第一原理ということを前提としてはならないのです。
第22節
第一原理を求めるとはどういうことか
第一原理を求めるためには、求めてはならないというならどうしたらよういのでしょうか。この矛盾をどうしたらいいのでしょか。矛盾は矛盾のなかに埋め込んでしまうのです。
第23節
哲学の勉強法
哲学はまず自分の何故に対して、まっこうから答えようとする意欲こそが勉強の第一です。少しでもそんな何故を感じたなら抑えないで追求してみてください。
第24節
第一原理
第一原理とは何だったのでしょうか。何であると言えばいいのでしょうか。あえて意味をもたせていうのなら、以下のように言えましょう。「超越論的領野においてすべてが現象する」という言明は本質的に無意味であるかぎりにおいてはじめて現象できるということなのです。
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