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第1章 哲学は何を求めてきたか
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カントの主著とも言っていい『純粋理性批判』は、人間の理性に何ができるかを徹底的に探求したものでした。そこに批判という名がついているのは、決して理性というものを蔑視しようということではありません。理性の働きを徹底的に究明し、真のあり方を問おうとする真摯な態度をカントは批判と呼んでいるのです。 カントがここで展開しているすべての論理の前提として、カント自身が誇っているコペルニクス的転回、すなわち、 「認識が対象に従わなければならない」
から 「対象こそが認識に従わなければならない」 へと転回することによって、先験的論理を見出したのでした。 もし、認識のほうが対象に従わなくてはならないとするなら、私たちはその対象といわれる外界のものを、あくまで経験によって認識する他ありません。そうすると、なにもかもが経験する以外にどんなことも確認できず、何が真であるかを論理においてではなく、経験によってしか証明することができなくなってしまいます。これこそまさにヒュームが唱えた経験以外に何も認識することはできないというものでした。このヒュームの指摘から飛翔するためには、私たちの外界とのかかわり方のもっとも基底部から根底的に変革しなくてはなりません。 そして、その革新的方法論こそカントのいうコペルニクス的転回なのです。この転回によって認識は経験からの従属を離れ、経験を介さずともまったくの思惟によって対象の本質を捉えることができるようになるのです。 このような先験的論理、言い換えれば、先験的総合判断のひとつの典型的な例として数学が見出されます。数学における真理とは、決して経験によって初めて見出されるものではなく、それは経験を超えて真理でありえると考えたのです。経験を超えてある以上、それは普遍的真理として見出されるのです。そして、そのように数学の真理をとらえる以上、どうしてもカントの言うコペルニクス的転回が必要になるのです。 しかし、このようなコペルニクス的転回によって、見出された先験的論理とは何なのでしょうか。本当にそのような能力が理性に備わっているというのでしょうか。 もし、そのような理性が私たちに備わっているとしたら、私たちは、そのような理性をどのようにして手にしたのでしょうか。経験によってではありません。コペルニクス的転回によって、このような先験的理性は経験以前に備わっているのだとされているからです。 結局、これは数学が普遍的な真理であるということを前提にして、それが理性にとっても普遍的であると認識されるのなら、このようなコペルニクス的転回が必要になるということではないでしょうか。 しかし、そもそも数学が普遍的な真理であるという前提は、自明ではありません。数学において真理と呼ばれているものは、何の疑う余地もなく真理であるとしてよいのか、これには大きな疑問がつきまといます。カントの先験的論理とは、この疑問をいっさい無視することによって初めて成り立っているのです。 それは結局、数学における真理を絶対化し、形而上学としてしまうことによって、そのようなものが絶対的真理ならば理性が認識できないはずがなく、コペルニクス的転回によって、対象こそがこのような認識に従わなくてはならないとされるのです。
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